2009年9月12日土曜日

三宅勝久氏『自衛隊という密室』上梓

 
 サラ金・ヤミ金問題、自衛隊の暗部などを取材、旺盛な執筆活動をしている気鋭のジャーナリスト・三宅勝久さんが、9月半ばに新刊『自衛隊という密室』(高文研)を上梓した。
  2004年『悩める自衛官』(花伝社)、2008年『自衛隊が死んでいく』(同)に続く、自衛隊についての3作目だ。

 同書の内容は、
①自衛隊内で多発する自殺、いじめなどの実態を追及。凄惨ないじめにあって除隊した元自衛官たちの生々しい告白を紹介。

②自衛隊と防衛産業との癒着、もたれあい体質の実態を追及。

③昨年秋に当時の航空幕僚長・田母神氏が、懸賞論文に「我が国が侵略国家だったというのはまさに濡れ衣だ」と発表し、防衛大臣によって更迭された件について、その背景を取材。特に圧巻なのが、田母神氏が東京から北海道への1泊2日の出張にあたり、自衛隊のヘリや航空機を使って何百万円というガソリン代を使ったことなどが明らかにされている。

 著者である三宅勝久氏のコメント、「いじめや自殺の多発など、今の自衛隊が抱える様々な問題を見ていると、まるで日本の縮図を見ているかのようです。今の自衛隊の体質は、まるで旧軍に回帰しようとしているかのように見えます。本書で書いた、自衛隊が抱える様々な問題は、いずれ国民全体にも降りかかるかもしれない問題ばかりだと思います」と述べた。 

2009年8月31日月曜日

今日ダイアナ命日。事故現場で見えた疑惑


 今日8月31日は、英国のチャールズ皇太子の元妃ダイアナがパリで死亡してから12年目。添付写真、本記事の筆者が立つのは、ダイアナが「事故」を起こしたトンネル。ダイアナの事故死をめぐっては、さまざまな陰謀説が流布しているが、それらの多くは現場取材に基づいたものではなく、噂の寄せ集めにしかすぎない。取材の基本は、まずは現場に立つこと。筆者はパリに行く度に、ダイアナが最後に走ったのと同じコースを、同じ時間帯にタクシーで、猛スピードで走ってもらう。

 ダイアナを乗せたメルセデスはあの日、深夜12時を少し回った頃、リッツ・ホテルを出発。恋人だったドディ・アルファイド氏、ボディ・ガードのトレーバー・リース・ジョーンズ氏が一緒で、運転手はアンリ・ポール氏だった。メルセデスはいくつかの交差点を曲がると、コンコルド広場を過ぎ、トンネルへと続く約2kmの直線道路に出る。トンネルは、アルマ広場という広場の下を潜るように設けられている。ダイアナの乗ったメルセデスは、カメラマンたちに追いかけられ、それを振り切ろうとスピードを上げ、時速200キロ近いスピードでこのトンネルに飛び込み、13本目の柱に激突したというのがフランス警察当局の公式見解。
 しかし、時速200㌔近いスピードでこのトンネルに飛び込もうと思えば、少なくともトンネルに入る200~300メートル手前から加速しなければならず、この時間帯のこの道路は通行量が多く、現場を何度も走った筆者の私見としては、もし本当に時速200㌔でこのトンネルに飛び込もうとするならばトンネルに入るまでに事故を起こさないほうが難しい。事故を起こさずにトンネルまで辿りつけたとしたら、よほどのドライビングテクニックを持った運転手か、たまたま事故のあった日のあの時間帯だけ通行車両が少なかったかのどちらかだ。そう考えれば、ダイアナの事故は、スピードの出しすぎによる激突ではなく、別の形の事故だったかもしれない。 

 ダイアナの事故死に、陰謀があったかどうかは分からない。しかし、現場を繰り返し通るだけでも、警察当局の見解に「ハテナ?」と思えることも出てくる。

2009年8月27日木曜日

戦地へ赴く者の心構え(8)戦場と保険金

戦地へ赴く者の心構え(8)利害一致するパートナー


 戦場へわざわざ行くということは、どう贔屓めにみても、ハイリスクローリタンの生き方を自ら進んでやることである。このハイリスクローリターンが前提になるため、チョロいことで安易に儲けようとするタイプの人は、長続きしない。 

具体的によくいわれるのは、海外旅行保険に入って、携行品の盗難や破損などで保険金を貰うことを覚えてしまった人は、もう、バカ正直に戦場屋なんかやっていられなくなるということである。一般的に、戦争国やその周辺の治安の悪い国における盗難等の場合、保険会社の調査は入らず、請求した保険金は下りやすい。1988年からのパナマ動乱まのときには、仮病を訴えて病院をホテル代わりにタダで使った日本人カメラマンがその詐欺っぷりで知名度を上げていた。 私の直接の知り合いでも、カメラ機材を全部盗まれたことにして、地元警察に盗難を認定する書類を作ってもらい、保険金をせしめた人は2人いて、2人ともその後、戦場突入からはリタイアしている。他にも、このような保険金詐欺をやった人で、その後、戦場突入をできなくなっていっている人は数人いる。

 だが、このような保険金詐欺の能力に長けている人がビジネスマンとして劣っているわけではなく、戦場以外のテーマでは、その後も、しっかりし仕事をし稼いでいる。つまり、ハイリスクローリターンが絶対条件ともいえる戦場野郎としての適性はなかったというだけで、人間として問題があるわけではない。戦場野郎を続けはてゆく者は、「楽して安全に儲けるなんて魅力ない」っていうマゾ的な素養が必要なのである。けっして、詐欺などしない清廉潔白な人格というわけではない。他の面では、いろいろずるいこともやるんだから。 

2009年8月25日火曜日

コラム 東欧革命20年の風景 ドイツ①


 1989年の東欧革命から、今年で20年。1989年といえば、第二次世界大戦後の東西冷戦構造が崩壊した年だった。6月にポーランドで初の自由選挙が行われ、ワレサが率いる「連帯」が圧勝。以後、チェコスロバキア(当時)、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、東欧で相次いで共産党独裁体制が崩壊した。分断国家だったドイツでは、ベルリンの壁が民衆によって打ち砕かれた。あれから20年…。これらの国々の民衆はどのような生活を送っているのか、その断片模様をお伝えする。

 第二次世界大戦後のドイツは、資本主義陣営の西ドイツと、共産・社会主義体制の東ドイツに分かれていた。ベルリンは当時、東ドイツの中にあり、東ベルリンと西ベルリンに分断され、西ベルリンは西ドイツの飛び地として米・英・仏の統治のもと資本主義体制で住民が暮らしていた。そして、その西ベルリンと東ベルリンとの間には、双方を分断する「ベルリンの壁」が1961年から横たわっていた。それが解放され、事実上、東西ベルリンの往来が自由になったのが1989年11月9日のことだった。そして、翌年10月3日には、東西ドイツは統一、ドイツ連邦共和国としてスタートを切り、今に至る。

 添付写真、当記事の筆者が立つのは、かつての東西ベルリンの検問所チャーリー・チェックポイント跡。「ベルリンの壁」崩壊後に閉鎖され、時を封印している。ポツダム現代史研究センターが先日発表したところによると、かつて東ベルリンからこの検問を突破しようとして旧東ドイツ国境警備隊に射殺されるなどして命を落とした犠牲者は136人に上るという調査結果が出た。

 この20年、欧州では通貨統合、EU発足などグローバリゼーションが進行。筆者はこの間、何度もドイツを訪れた。レストラン、ホテルなどサービス業に従事する移民の数は、年々増えているのを肌で感じた。生活に不安を持つドイツ人が、「仕事を外国人に取られている」と思い込み、外国人排斥運動のネオナチを支持する動きが広がっている。ベルリンの繁華街ポツダム広場そばで、そんな若者たちが集う人気クラブで知り合ったDJは僕に、「次に戦争を仕掛ける時はイタリア抜きでやろうな」と呟いた…。一つの壁は消えたが、新たな壁が厚くなっている。

2009年8月8日土曜日

戦地へ赴く者の心構え(7)利害一致するパートナー

 ボスニア戦争中、商売を考えて売れる写真を撮ろうとした人は、サラエボを目指した。しかし、包囲下とはいえ、国連などの努力で、37万人の市民が暮らせているサラエボには、軍事的におもしろみは薄かった。そのため、戦争屋といわれるジャーナリストたちは、ボスニア北東部のブルチコ、オラシエや、北部デレベンテを目指した。そのような戦争屋の行くところには、怪しい情報屋がいる。地元のジャーナリストなのだが、同業者とはおもえないほど、戦場突入のルートを親切に教えてくれる。そして、彼らのアドバイスに従って戦場突入をして、町へ戻ると、彼らはもうすでにいない。

 ウワサでは、彼ら情報屋は、当事国の情報機関員だといわれている。無鉄砲なフリーランスを危険地帯に飛び込ませて、無事に帰ってこれるかどうかを確かめていて、その戦域の細かい情報を作成しているのだといわれている。そんなことはわかっていても、戦争屋になってしまったジャーナリストは火中の栗を拾いにいく。そこでしり込みするようなら、サラエボへ行って、悲惨な市民生活でも撮っていたほうがいい。 もちろん私も、資金稼ぎのための取材としては、サラエボにも何度か行っているわけで、サラエボ行きが戦争屋にとって意味がないわけではない。

 さて、情報屋からは、徹底的に危険情報を聞き出す必要がある。検問については、向こうら教えてくれるのだが、対人地雷やブービトラップについてが大事だ。当時、話題として旬だったのは、親指サイズの対人地雷である。アスファルトの道路でも、ハンマーでアスファルトを凹ませて、そこに設置し、上に落ち葉などを被せて偽装できる。そして、もう1つは、空中爆発型の迫撃砲弾がどの戦線で使われているかである。こちらが、それなりの具体性のある質問をすれば、情報屋さんは、知っている限りの情報を教えてくれる。それは、無鉄砲なフリーランスに死んでほしいわけではなく、生存し続けていろんなことをやってもらい、その情報を確認したいからである。

 現場では、同業者同士は、蹴落としあうライバルである。しかし、情報機関は、利害関係の一致するパートナーになれる可能性を見出せる。同業者同士で仲良く団子状になることを、私はあまりお得だとは感じない。しかし、21世紀に入ってからの戦争取材では、ジャーナリストが団子状になっている取材スタイルが増えているようだ。 

 とおもっていたら、ボスニア時代に戦争屋やっていた知り合いフランス人ドベイさんは、イラク戦争でも、単身でレンタカーで米軍の進撃を追ったり追い越したりしていた。やっぱり、平和ニッポンの戦争屋カトケンのレベルでは、欧米の戦争屋レベルには届かないってか。ドベイさんは、元ローデシア傭兵部隊の兵士で、湾岸戦争時も、レンタカーでクウェートへ突入し、米軍戦車部隊を追い越してしまい、イラク軍の捕虜になってフィルムを全部失っている。