2009年8月25日火曜日

コラム 東欧革命20年の風景 ドイツ①


 1989年の東欧革命から、今年で20年。1989年といえば、第二次世界大戦後の東西冷戦構造が崩壊した年だった。6月にポーランドで初の自由選挙が行われ、ワレサが率いる「連帯」が圧勝。以後、チェコスロバキア(当時)、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、東欧で相次いで共産党独裁体制が崩壊した。分断国家だったドイツでは、ベルリンの壁が民衆によって打ち砕かれた。あれから20年…。これらの国々の民衆はどのような生活を送っているのか、その断片模様をお伝えする。

 第二次世界大戦後のドイツは、資本主義陣営の西ドイツと、共産・社会主義体制の東ドイツに分かれていた。ベルリンは当時、東ドイツの中にあり、東ベルリンと西ベルリンに分断され、西ベルリンは西ドイツの飛び地として米・英・仏の統治のもと資本主義体制で住民が暮らしていた。そして、その西ベルリンと東ベルリンとの間には、双方を分断する「ベルリンの壁」が1961年から横たわっていた。それが解放され、事実上、東西ベルリンの往来が自由になったのが1989年11月9日のことだった。そして、翌年10月3日には、東西ドイツは統一、ドイツ連邦共和国としてスタートを切り、今に至る。

 添付写真、当記事の筆者が立つのは、かつての東西ベルリンの検問所チャーリー・チェックポイント跡。「ベルリンの壁」崩壊後に閉鎖され、時を封印している。ポツダム現代史研究センターが先日発表したところによると、かつて東ベルリンからこの検問を突破しようとして旧東ドイツ国境警備隊に射殺されるなどして命を落とした犠牲者は136人に上るという調査結果が出た。

 この20年、欧州では通貨統合、EU発足などグローバリゼーションが進行。筆者はこの間、何度もドイツを訪れた。レストラン、ホテルなどサービス業に従事する移民の数は、年々増えているのを肌で感じた。生活に不安を持つドイツ人が、「仕事を外国人に取られている」と思い込み、外国人排斥運動のネオナチを支持する動きが広がっている。ベルリンの繁華街ポツダム広場そばで、そんな若者たちが集う人気クラブで知り合ったDJは僕に、「次に戦争を仕掛ける時はイタリア抜きでやろうな」と呟いた…。一つの壁は消えたが、新たな壁が厚くなっている。

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