2009年6月14日日曜日

他人事ではない自白の強要(1)

 昨日、単行本『報道されない警察とマスコミの腐敗 映画『ポチの告白』が暴いたもの』の読者2人から電話があった。どちらも「知り合いが警察で拷問的な取り調べを受け、自白を強要された」というもの。それぞれ逮捕容疑や警察本部が異なる別件だ。「足利事件」(後注)でも、菅家利和氏は「警察官が髪の毛を引っ張ったり、足で蹴飛ばしたりして、『おまえがやったんだから、早くしゃべって楽になれ』と言われた」と話している。

 拷問的な取り調べは横行しているが、警察官が責任を問われることはまれである。取り調べは密室で行われるから、目撃者がいない。ただでさえ身内の犯罪をかばう警察にとり、もってこいの環境だ。取り調べを録音・録画する、いわゆる「可視化」が必要とされるゆえんである。

 警察が身内の犯罪をかばうプロセスについて、上記単行本で黒木昭雄氏(ジャーナリスト)が元警視庁巡査部長ならではの解説をしている。

 「例えば、現場の警察官が一般市民を殴ってしまったとする。いったん不祥事が起きてしまえば、それからは、上へ上への伝言ゲームです。現場の警察官→直属の上司→所属長(警察署長や警察本部の課長など)→警務部長→本部長、と事件が伝えられる。このとき、直属の上司が機転をきかせて所属長に、『トラブルはありましたが、殴ってはいません』と報告したとします。所属長はそれがウソだと知っていても、『そうか』と飲み込む。むしろ内心では、『よくぞウソをついてくれた』と感謝していることでしょう。すると、現場の警察官らは事件のもみ消しを図らなければなりません。彼らはみんな、『上司はウソの報告をしたんだな』と感じます」

 警察官に警察官の犯罪を捜査させるのは、ドロボウにドロボウを捕まえさせるのと同じこと。まったく意味がない。筆者は20年近く主張しているが、たとえ期間限定でも、日本に「警察を取り締まる警察」を設置しなければ、警察の腐敗はとどまるところを知らない。

 【足利事件】1990年5月12日、栃木県足利市で女児(4歳)が行方不明となり、翌日、遺体で発見された。1991年12月2日、栃木県警は、女児の衣服に付着していた精液とDNA型が一致したとして、元幼稚園バス運転手の菅家利和氏を殺人容疑などで逮捕する。公判で菅家氏は犯行を否認し、導入直後のDNA鑑定の不備も露呈するが、宇都宮地裁(久保真人裁判長)の無期懲役判決(1993年7月7日)が、東京高裁判決(1996年5月9日、高木俊夫裁判長)、最高裁第2小法廷決定(2000年7月17日、亀山継夫裁判長)でも支持された。菅家氏は再審請求を提起。2008年2月13日、宇都宮地裁(池本寿美子裁判長)は棄却するが、同年12月24日、東京高裁(田中康郎裁判長)は再度、DNA鑑定を行うことを決定した。2009年5月8日、東京高裁(矢村宏裁判長)は、再度のDNA鑑定の結果、女児の衣服に付着していた精液のDNA型は菅家氏のものと一致しないことを検察側と弁護側へ伝えた。同年6月4日、検察庁は菅家氏を釈放した。

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