ボスニア戦争中、商売を考えて売れる写真を撮ろうとした人は、サラエボを目指した。しかし、包囲下とはいえ、国連などの努力で、37万人の市民が暮らせているサラエボには、軍事的におもしろみは薄かった。そのため、戦争屋といわれるジャーナリストたちは、ボスニア北東部のブルチコ、オラシエや、北部デレベンテを目指した。そのような戦争屋の行くところには、怪しい情報屋がいる。地元のジャーナリストなのだが、同業者とはおもえないほど、戦場突入のルートを親切に教えてくれる。そして、彼らのアドバイスに従って戦場突入をして、町へ戻ると、彼らはもうすでにいない。
ウワサでは、彼ら情報屋は、当事国の情報機関員だといわれている。無鉄砲なフリーランスを危険地帯に飛び込ませて、無事に帰ってこれるかどうかを確かめていて、その戦域の細かい情報を作成しているのだといわれている。そんなことはわかっていても、戦争屋になってしまったジャーナリストは火中の栗を拾いにいく。そこでしり込みするようなら、サラエボへ行って、悲惨な市民生活でも撮っていたほうがいい。 もちろん私も、資金稼ぎのための取材としては、サラエボにも何度か行っているわけで、サラエボ行きが戦争屋にとって意味がないわけではない。
さて、情報屋からは、徹底的に危険情報を聞き出す必要がある。検問については、向こうら教えてくれるのだが、対人地雷やブービトラップについてが大事だ。当時、話題として旬だったのは、親指サイズの対人地雷である。アスファルトの道路でも、ハンマーでアスファルトを凹ませて、そこに設置し、上に落ち葉などを被せて偽装できる。そして、もう1つは、空中爆発型の迫撃砲弾がどの戦線で使われているかである。こちらが、それなりの具体性のある質問をすれば、情報屋さんは、知っている限りの情報を教えてくれる。それは、無鉄砲なフリーランスに死んでほしいわけではなく、生存し続けていろんなことをやってもらい、その情報を確認したいからである。
現場では、同業者同士は、蹴落としあうライバルである。しかし、情報機関は、利害関係の一致するパートナーになれる可能性を見出せる。同業者同士で仲良く団子状になることを、私はあまりお得だとは感じない。しかし、21世紀に入ってからの戦争取材では、ジャーナリストが団子状になっている取材スタイルが増えているようだ。
とおもっていたら、ボスニア時代に戦争屋やっていた知り合いフランス人ドベイさんは、イラク戦争でも、単身でレンタカーで米軍の進撃を追ったり追い越したりしていた。やっぱり、平和ニッポンの戦争屋カトケンのレベルでは、欧米の戦争屋レベルには届かないってか。ドベイさんは、元ローデシア傭兵部隊の兵士で、湾岸戦争時も、レンタカーでクウェートへ突入し、米軍戦車部隊を追い越してしまい、イラク軍の捕虜になってフィルムを全部失っている。